スーパーな夜
急にスーパーマンが見たくなって、六本木ヒルズの映画館に行ってきました。
ここだと八時からの上映開始で、間に合いそうだったから。
でもお盆の日曜日の夜に六本木にいくなんて、自分の常識の無さに気づいたのは着いてからでした。
盆踊りかなかんが開催されてたらしく、浴衣のおねぇちゃんたちと、やる気マンマンの外人さんたちが、ウヨウヨガヤガヤ。
映画館からは、ドドーッと人が吐き出されてくる。
あちゃー、とんでもないところに来ちまった。席ないかもしれない。ここまできてから、それに気づくのって、ほんとにおとぼけ君です。
ちょっと焦り気味でケチットカウンターに行くと、案の定、残りの席はあとわずか。でも、さいわい一人だったので、壁際の席が残ってました。
僕にとってスーパーマンは、幼い時に白黒テレビで見た、元祖ヒーローともいうべき存在です。
ゴジラやアトムや鉄人やウルトラマンなどよりも先でした。
みんなマントをつけるだけで、スーパーマンになって、空を飛んだ気になったもんです。
なんといってもスーパーマンの魅力は、空を自由に飛べること。
空を飛ぶ快楽を最初に具現化したのはスーパーマンでしょう。
宮崎駿監督のアニメの魅力の一つは、映像を見ること(体験すること)で空を飛ぶ快感を味あうことができるということだと、僕は思っています。
このスーパーマンの映画でも、空を飛ぶ快感をたっぷりと味わうことができました。
神話の時代から、『空を飛ぶ』ということは、人類の憧れであり、夢でもあったわけで、映画が、それを取り入れてきたのは、当然のことだったのかもしれません。
おもしろいフライングシーンを見たい僕としては、楽しめる作品にしあがっていました。
ドラマは、スーパーマンの愛の苦悩と成長を描いてるんですけど、そのあたりもウェルメイドな脚本でした。
無責任な観客の立場で勝手なことをいわせてもらえば、もっと原作からはみ出すようなスーパーマンも見てみたい気もするんだけど、オリジナルを尊重しなければならないという制約のなかでつくるとしたら、こういうふうになっていくのも仕方がないと思ってしまいます。
内情がわかってしまうというのは、脚本家の病かもしれません。
でも、その制約から、すこしでもはみ出して作り手のパーソナルをいかに作品に混入していくかが、大事なんだよね。
で、スーパーな夜は、まだまだつづきます。
映画を見終わって、劇場を出て、駅に向かう通路の先には、あまり人が乗らないエスカレーターがありました。ちょうどそこは人通りのあるところから死角になっているんです。
そこに十人ほどの人だかりができていて、真ん中に浴衣を着た女の子が仰向けに倒れてる。
女の子は意識がないらしくピクリともしていない。
ただごとじゃないということが、すぐわかった。しかし周りの人たちも、どうすることもできずにオロオロしているだけ。救急車への連絡は誰かがしたらしく、それを待つしかないという雰囲気。
僕もただ見守るだけしかできない。そこにどこからか「この人、医者なんです」という女の子の声。そして若い白人の男が女の子のそばにひざまずき、まるでERのドクターがするように、瞳孔と脈拍を見はじめました。
一瞬にして空気が変わるのがわかった。危機感のなかに、すっと一瞬安堵感が流れたんです。
ほんと命がかかわったとき医者というものの存在が威力を発揮するかを、体感しました。そのときサイレンの音が聞こえてきて、救急車が接近してくるのがわかりました。少し離れたところに救急車が止まると、その場にいた若いサラリーマンが駆けて行き現場に誘導してきます。名も知らぬ見知らぬ人たちが、連携プレーをしています。それはちょっといい光景でした。そのとき浴衣の女の子の意識が戻ったようだった。僕にはもう何もできそうなことはないと思ったので、女の子の無事を祈りつつ、その場をそっと離れました。
ほんのちょっと前まで、スーパーマンのファンタジー世界に行ってたはずなのに、いきなり現実のサスペンスが割り込んできて、僕は不思議な感覚のまま、駅へと歩きました。現実が、みょうに現実的に感じられないまま。どこかでまだ映画が続いているかのような感じなんです。
「ノミホウダイ、ノミホウダイ、ノミホウダイ」
いきなり肩ごしに若い黒人が話しかけてきた。
ふいをつかれて、僕はドッキリ。
相手が何を言っているのか頭では理解してるんだけど、体が反応しない。
外国人に話しかけられたという意識があるので、体は英語を話そうとしてるんだけど、聞こえてきている言葉が日本語なので、心と体が混乱して、言葉が出てこないのだ。頭では日本語で答えようとしているのに、体は英語を使おうとしているわけ。
これまた奇妙な感覚を味わってしまいました。
外国人の多い六本木ならではの感覚かもね。
メトロの乃木坂駅のトイレに入ろうとすると、その前で白人男性と浴衣の日本人の女の子のカップルがなにかいちゃついている。
二人は、そのまま女子トイレの中に消えて行ってしまいました。
おいおい、おまえら何するつもりなんだよ。
心でつっこみながら、走り込んでくる地下鉄に飛び乗るのだった。
自宅のある駅で降りて、ちょっと水でも買って帰ろうとコンビニに向かいました。
するとコンビニの前のタバコの自動販売機の前で、喪服に身をつつんだ年配の女性が二人、タバコが買えずにモタモタしてました。お通夜か葬式の帰りに一服したかったんでしょう。でもとっくに十一時は過ぎてるので自販機は販売中止になってます。それに気づかずに彼女たちはコインを投入し、『いったい、どうなってるのよ?』状態になっているのが、みえみえです。
自分で言うのも変ですけど、僕は田舎育ちで、お年寄りには親切にするというのが、子供のときから体に染みついてます。
それで瞬間的に、その喪服のコンビに声をかけていました。
「もー遅いんで、それ販売中止になってるんですよ。たばこなら店の中で買えますよ」
僕としてはしごく普通に言ったつもりだったんですけど、おばさんはなぜか、『ギャーッ』って悲鳴をあげて飛び上がってしまいました。
そんな脅かすつもりはまったくなかったんですけど。
僕はすっかり気まずくなって、コソコソとコンビニに入っていきました。もちろんおばさんたちも気まずかったらしく、「もー、自動販売機でタバコ買えないんだもん」となぜか声高に宣言しながらコンビニに入ってくるのでした。
いったい誰に言ってんだよ。
深夜のコンビニでは、消費期限になったパンを半額セールしてました。床近くに置かれたワゴンのなかには、売れ残りの菓子パンが山盛り。
そのワゴンの前に、ペタンと座り込んだ一人の少女がいた。
僕は見てはいけないものを見てしまった気がしました。彼女は、あきらかにやせすぎで、骨が浮きだした背中をまるめて座りこんでいる。両手でいくつもの菓子パンを抱え、一心不乱にパンを選んでいます。それは鬼気せまる光景です。
摂食障害。
僕の目のなかに、そんなテロップが流れます。
おばさんたちには親切に声をかけることができても、この女の人には何もしてあげられません。
目の前で気絶し倒れている人には、無償のボランティア精神で手当てをしてくれる人たちが、たくさんいます。親切な人は、実際けっこういるんです。
しかし、困ったり、苦しんだりしている人には、声をかけることも難しいのが、この都会です。
まったく不思議なところです。僕たちが暮らしている世界は。
映画館から家まで帰ってくるまでの、ほんの30分くらいの出来事でしたけど、いくつもの人生を切り取って見た気がしました。
それぞれの断片をうまく表現できたら、けっこう面白い映画ができるんじゃないかと思いつつ、僕のスーパーな夜は終わったのだった。
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